習字習ってたのにね!

昨夜、知り合いと久しぶりに話したら、

「髪の毛どうしたの?」「長い方がいいって言ったよね?」「男より短いじゃん!なんなの?」「出家後?」などと言われ、さすがの温厚な私もコイツ碌でもない死に方しないかなと思ってしまいました。

返信をする気も起きなかったので会話の一部を晒して終わらせたんですが、友達には「多分向こうはなんも気にしてないと思うし、怒ってることにも気づいてないよ」と言われました。

そんなことはわかり切っているんですよね。

晒されて私の怒りと悲しみがわかる人間ならそもそもそんなことは言わないんですよ。分からないから言うわけ。道徳と国語の授業を義務教育からやり直してください。

まあわかってて言ってる可能性もありますけど、それはそれで何をしたって無駄だし別に期待はしていないです。

私が晒したのは、私の怒りを第三者に知って欲しかったからで(その人たちが知りたいかどうかは別にして)、私が受けた不正と、それに対して私が黙ったままの人間ではないのだということを表明したかった。それだけです。

あとは学食で友達に「あいつほんと死んで欲しい、碌でもない死に方しろ!酒に酔って池におちろ!30年上がってくんな!」と騒いでいたら、同じテーブルにいた知らない人達が怖…何この人…みたいな顔してこっち見てて笑った。悪口のバーゲンセールみたいな感じだった。

あ、この動画は全部保存しました。出るとこでたら使おうと思って。見たい人は送るので言ってください。それで保存してもし私に何かあったら公開して虐められてたらしい、気に病んでました!可哀想に!やつれてしまって!とか言ってください。

 

人の行動を、リセットする話はしましたっけ。

嫌なこととか、ムカつくこととか、色々ありますけど、私は割とその都度怒っていることに最近気が付きました。なんかした気がするなこの話。

で、この性格の元になってるのは多分小学一年生の時に読んだ本がきっかけなんですよ。

『ルーンの子供たち』ってやつです。みんな大好きテイルズウィーバーのキャラクター(設定は何故か違う)の出てくるやつですね。

その中に、幼馴染の男二人が出てくるんですけど、その片方が相手について話してたシーンがすごく好きで。

「俺だってあいつの全てが好きなわけじゃない」って。

当たり前なんですけど、私の人生において1番最初にこれをシンプルに言語化してくれたのがマキシミリアンだったんですよね。それから私はこの言葉を臍にしまったまま生きるようになってしまった。

帰納も演繹も人間関係に持ち込みたくないんですよ。だってわたしは「あいつの全てが好きなわけじゃない」んだから。そう思ってても、多分私は帰納法で相手を判断してしまうし、演繹法でその行動を断じてしまう。だから、頑固にこう思っているくらいで丁度いいと思うんです。

 

一つ一つ個別の事例として捉えて怒るより、この人はこういう人なんだ、仕方がない、諦めよう、と思う方が、きっと楽だと思います。体力使わないのはわかっているんですよ。でも、私には多分無理です。

怒りは別に悪い感情じゃないから。二次感情ではあると思っているし、コントロールできればそれに越したことはないと思いますが、無くしてしまうのも勿体ない。

あと、全て許してしまうより、怒った方が何だかいいような気がするんです。何故かはまだわかっていません。

 

 

でもこう、久しぶりに人との違いを見たというか、こういう人もいたな、と思いましたね。

最近は自分のことばかりを見つめすぎていたのかもしれないです。反省しました。

 

ところで今年に入ってから、読んだ本でいいなと思ったフレーズを、忘れないように手帳に書き留めるようにしているんですよ。だんだんとページが埋まってきて楽しいです。あとから見直しても楽しめるしオススメです。

あと、いかに自分の思想が偏っているかがわかって楽しいです。誰かに見せたいけど字が汚い。

はい今週のねサンデーの話をね

したいとおもいますけれども。

 

いま名探偵コナンにはまってるんですよ、皆さんご存知だと思いますけど。

でね、わたしのすきな降谷零っていう男は、今までに家族の話を一切しておらず、初恋のお姉さんは黒の組織のせいで命を落とし、その人の娘も片方は死に、片方は縮んでしまっていて、警察学校の同期も全員死んでいるという、ま~~~死神か?みたいなやつなんですよ。

 

でね、今週のサンデーでは、降谷の幼馴染の男の遺留品が、その兄に届けられたわけなんです。

一緒に潜入していて、幼馴染はNOCとバレたために自殺、そこから遺留品のスマートフォンを持ち帰ったのは降谷。

 

Twitterみていたら色々考察流れてきて面白かったです。そりゃあしんどいけど。

みんな泣いてる、涙止まらない、みたいなこと言っていたけど本当かな。

 

わたしは降谷も、死んでいった同期のキャラも大好きなんですけど、彼らのことを可哀そうだと思ったことは一度もないです。

あと、いつまでも、生きている降谷を可哀そうがって死にたがりみたいに見るのはなんだか違うんじゃないかなあと思ってしまった。

わかんないけど、わかんないですけど、にんげんは、生きているなら変わっていくものじゃないですか。それ自体は別に悪いことじゃない。忘れることも悪いことじゃない。

 

わたし、物心ついてから身近で死んだ人間と言えば、祖父なのですけど、そりゃあ彼がいなくなってしまった時は悲しかったけど、今でも同じように悲しんでいるか、と聞かれれば、そんなことはないです。

わたしと降谷は同じ人間ではないし、まあ第一あれは漫画のキャラクターに過ぎないんですが、わたしが祖父を想うのと、降谷が同期を想うのと、どれほどの違いがあるんでしょうか。

人によって違うからあれだけど。

 

あとは、なんだろう、その悲しみはわたしのものであって他人に憐れまれたり、同情されたり、共感されたりするのはまっぴらごめんです。

だから降谷のそれで泣くほど悲しんでいる人を見ると、エエ…ってなっちゃうんですよね。こわくないですか、なんだか。そんなにも他人の悲しみや苦しみに寄り添おうとする人。こわい、なにがこわいのか具体的に今眠すぎて何も考えられないけど、わたしはこわいとおもう。

なにかいてんのかわかんなくなってきたあああああああああああああああああああああああああん

この前学校の授業で、「文化」とはなにかって話をしてたんですよ。

わたしたちがだした結論は、「マジョリティが恣意的に定めた線引き」だったんですけど、まあもちろんこれ、批判的な文脈が垣間見える表現ということはお分かりいただけると思います。

まだ定義だけなので、ここから先生がどういう話をしていくのかとかはわからないんですけど、わたしの頭では今のところ、この定義を受け入れるか、受け入れないかの二つの選択肢しか思い浮かびません。

 

受け入れ、かつ批判し、人々の意識からより差別をなくす働きかけをすることは可能なんでしょうか、

それとも否定すればいいのでしょうか。わたしが否定をしても、なくなるわけではないのに。

それとも、何かを変える必要なんてないんでしょうか。

 

こうしたマジョリティによる差別の一つに、ジェンダーの話があると思うんですけど、

わたし前にも書いたけどジェンダー研究に少し興味があるんですよね。

まあ少しどころじゃないですね。めちゃりんこある。もう興味しかない。

 

「女だから」って言われるの、死ぬほど嫌いなんですよ。

すきなひといないか。だって差別ですもんね。ドМだって差別じゃ喜ばないんじゃないですか?知らんけど。

あと、「女だから」っていうのも、言っているのを聞くのも嫌いです。

だってそれって、男の差別的な価値観を輸入しているのと同じじゃないですか。受け入れてることと何が違うんですか?

 

この前バイトの予習で高校生の頃に使っていた現代文のテキストを眺めていたら、「アニメのヒロイン像」からジェンダーを見る話が載っていました。

クインビー症候群という言葉を知っていますか?わたしは知りませんでした。

クインビー症候群は、言うなれば、男中心社会で”女”を殺して例外的に成功した名誉男性的な女性のことです。

彼女たちは、自分の成功を努力の賜物であると信じているので、他の女性が成功しないのはそれが不足しているからだ、とし、また、自分「だけ」がいい思いをすることができる男性中心社会を変えるつもりもない。なので、女権論者から言えば極めて邪魔な存在でしょうね。

反対に、伝統的な性役割について成功しようと考える女性もいる。

アニメのヒロインはこの2タイプだ、っていう話で、それはおかしい、って話でした。

 

じゃあどうするの?女が戦うのに不利だとわかりきった場所で、女が女のまま、男と対等に戦うってどういうことなのか、私には想像がつきませんでしたけど、例えばどういうヒロインならこの筆者は納得するんでしょうか。そこまで書いてくれ。

それは、女王蜂でも蝶でもない、どっちつかずの態度をとることになるのでしょうか。

そうであれば、彼女の提言に何の意味があるんでしょうか?

わからないですね。もう何もわからない。もうね。

公安最終試験からの脱出失敗しました!!!!!!

は〜?まじで悔しい  しょうみ今までで1番悔しいってかもう今までは悔しさとか感じていなかったのでは?

脱出ゲーム行きたすぎる、誰か行こうよ〜ね〜いこ〜たのむ〜1人で行ってもどうせ死ぬしこう、あとからワーワー言う相手が欲しいから誰かと行きたいんだよ私は…頼む!!!!!!!!ガソリン飲むから!!!!!!!!!!!!!!!嘘!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

え?悔しい、なんなのですか?

受験後に受けれる個人成績試験もC+だったんですけど…なに…?

もう難しいことは夫に任せていれば良くない?

夫の名前は明かせないんですけど…職務上色々ありまして…ええ…私の姓は降谷です…まあこれも嘘なんですけど…

 

まあまずだいたいね、記憶力が悪い。これは私のせいです。

最近覚えるということをしていませんからね。

あと計算問題を解く機会が減ったので暗記がぐんと苦手になりました。対処方法がわかっているならやれよという話なんですけれども…マジで今度公務員試験のテキストとか買って数的推理とか勉強しようかな…

 

あと問題をちゃんと読まない。これは致命的。今日の試験で、求められているやつの次の答えを一足飛びに出そうとしてみんなに止められたんですけど、でも私は間違っていない…と思っていたからね。間違っていない…という顔をしていたらチームメンバー2人に笑われてしまった。いや反省しろよマジでお前は問題をきちんと読め。

 

脱出ゲームのリテラシーが足りないのも問題ですよ。これは脱出ゲームに通わなければ得られないものなのでどうしようもない部分はあるんですけど。脱出ゲームと私が向き合うことによって、脱出ゲームはその謎に込められた意味を明らかにして脱出ゲームとして存在するようになるし、私は脱出者になれるというわけです。このふたつは双方向の関係にあるので、これを繰り返すことで私には脱出ゲームに臨むためのリテラシーが身につくんですよ多分知らんけどそうでしょそうだって言えよーーーーーーッ!!!!!!!!

 

ア!!!!!!!!悔しい!!!!!!!!!!!!

風邪、治しました。

これが本気!

 

今日バイトしてたらまた社長に変なこと言われちゃった。

 「ソフィアくんって何食べてるんですか?」

「なにを…食べてるか…!?」

「はい、何食べてるんですか?」

「なにを………?え………なに…?」

「未来的なものしか食べないんですか?ウィダーインゼリーとか」

いやそれ現代にあるから現代の食べ物では…?わからんな…

結局社長が言いたかったのは「モナカ食べたい?」だった。

くれるなら欲しいよ。

 

 

今日Twitterで、劇場版名探偵コナンゼロの執行人で降谷零さんが「正義」と一言も口にしていない、という話を見て思い出したことをかきます。

私、小学生の時から心がけていることがあって、「可哀想」って言わないようにしてたんですよ。まあ言うんですけど(どっち?)

可哀想って上から目線の言葉だ、って何かの本、たぶん国語の文章題とかで出てきたやつだと記憶しているんですが、読んで殴られたような心持ちがしました。

それまでそんなことを考えたこともなかったので。

確かに、「可哀想」という言葉は、相手を下に見ている時にしか言わないかもしれない。相手を下に見るのは良くないことだ。だから、言わないでおこうと思った。

そういうのが結構あって、中学二年生の時だったかな。

クラス委員に立候補する時に、演説を考えていて思ったんです。

「クラスのみんなの役に立ちたい、というのは違うんじゃないか」って。それって結局、私がやりたいからやってる訳じゃないですか。でも「クラスの役に立ちたい」って言うことで、私は私の責任をクラスのみんなに押し付けていることになるのでは?と。

または、聞こえがいい言葉で飾り立てているだけなのでは?と。

気づいちゃった私は、演説で「私がやりたいから立候補しました。よろしくお願いします」と言いました。僅差で負けました。でも別にそういう仕事ができれば、私はなんでもよかったので、違う委員をやりました。

 

大学のAO入試の時も、私が勉強したくて、私が将来こうなりたいからこれを目指しているだけなのに、どうしてそれじゃあいけないんだろうと思っていました。

綺麗事を並べ立てて一体なんの意味があるのか、と。

でも今思えば、きっと、綺麗な言葉で飾り立てるのは、悪いことではないんですよね。

私はまだ、それを許容するのが苦手です。それだけ。

 

私が降谷零さんのことを可哀想だと思わないのも、ゼロの執行人をみてそりゃあそうだろうな、と思ったのも、もしかしたら、私が彼に「やりたいからやる」という心境を投影して見ていたからかもしれないです。

 

二次元のキャラクターを好きになるのは、自分に似ているからだって聞いたって前にも書いた気がします。

フォロワーには「ソフィアくんは推しにあんまり似ていないよ」と言われましたが、“似ている”というのはself perceptionの問題なので他人から見てどうとかは関係ないんだと思います。

 

「頑固」ということばは正確には当てはまらないかもね、といわれましたが、こういう所は頑固だなと自分でも思います。

というか、他人からの意見を頑として受け入れないところは、みとめたくはないですが、まあ時と場合によっては短所と言える部分なのでしょうね。

 

風邪を引いてしまったんですけど!

今週金曜は加州の単騎出陣なんですけど!

土曜は久々にだいすきな友達と会うんですけど!

日曜は公安最終試験なんですけど!

月曜は同人誌即売会なんですけど!

は?なに風邪とか引いてんの?意味わからん治すわ明日中に治すね。

 

てか明日の一限はめちゃめちゃ興味ある授業だから熱とか出たら泣いちゃう。

三限はどうでもいいんだけど必修だから出ないとまずいんだよね、評価いいのほしいし。

早く寝るわ今日はもう寝ますこれをかいたらね。

 

 

最近『反共感論』という本を読んでいます。

人間は対象によって共感の度合いを無意識に変えてしまうという話があったんですけど、

そういえばわたしがクソ女(前にも出てきた奴です)が言っていることに共感をしないのは、そう言うことなのかもなあと思って、

いやどうなんだろう、となった。

 

 

くそ女が男女関係で泥沼にはまっている話はしましたっけ。まあ嵌まっているんですよ。

本人は「抜け出そうとおもっている」とは言いつつも何もしていないので、そのまま。

相談を受ける友人がだんだんノイローゼ気味になっていくのをわたしは見ている。

 

行動に移せないということは、自覚が足りないということだとわたしは思うのですけど、それは果たして彼女に対してのわたしの偏見からくる意見なんでしょうか。

 

 

彼女が、「ひとりぐらしが寂しくてたまらない、耐えられない」と喚くのも、わたしはあんまりしたくない行動だなあと思う。

理解できないわけではないんです、そりゃあ孤独を感じる夜だってあるだろうし、誰かと一緒に食事をすることの幸せも、わたしだってひとりぐらしをしているわけですから、そりゃあわかります。

でも、耐えられないと喚いたって、仕方ないじゃないですか。耐えるしかない。

そういうものだと思っていた。これも偏見からくる意見でしょうか?

 

くそ女の話ではないけど、高校の卒業式で、寂しいって泣いている子のことも理解できなかった。

わたしたちは確かに、明日から同じ教室に集まることはないけど、会おうと思えばいくらでも会えるし、話そうと思えばいくらでも話せるのに、

寂しいのならそれを埋める努力ができて、そのための手段は存在しているのに、

なにを泣くことがあるのかと思った。

 

祖父の話も似ているのかもしれないですね。

前に書いたと思うんですけど。まだ死んでいないのに、祖父が死んだかのように泣いている従姉と姉のこと、死んだ後に「もっと話をすればよかった」と泣いていた従兄のこと。

わたしはその時、祖父はまだ死んでいないのだから、自分にできることをすればいいのに、と思っていたし、祖父が死んだ今、自分たちが祖父のためにできることを考えるべきだと思っていた。

お葬式は死んだ人のためじゃなくて、生きている人のためにあるんだから。

 

 

わたしは意志をたぶん、なにより大事にしていて、それは、できることよりやることの方がずっと難しい、という考え方に通じるものがあるのだと思います。

それでもって、結局のところ、後から客観的事実として残るのは結果だけれども、自分の中にだけは意志が残る。それがわたしにとっての救いなんだろうと思っています。

 

 

 

『反共感論』、まだ読み終わってはいないんですが、とても面白いのでお勧めです。

くそ女の話には当てはまらなかったけど、とても興味深い内容でした。

この間書店で買うかどうか小一時間悩んだ末、購入しなかったのですが、学校の図書館にあって僥倖。

是非読んでください。

 

キャラメル買ったら謎ついてくるよ

新学期が始まって忙しくなりつつあるけど、今学期の授業は結構楽しそうなのでモチベが高いです。

まあ新学期はだいたい高いんですけど。

 

人間がどのように意思決定するのか、って授業と、自分と社会との関りを見つめなおす学問が特にお気に入りです。ドンピシャわたしの興味があるところだ。

 

でもちょっと不安でもある。わたしの性格的欠陥が助長されるような気がします。

悪いところね。わからないものを破壊しようとするところとかね。自分と他人の間に明確に線を引きすぎるところとかね。論理でなんでも捉えがちなところとかね。

わたしはこれらを自らの欠点だと認めつつ、同時にこれは自分の特性であって長所足り得るとも思っている。そういうところだよホントにね。

 

 

この前姉の話をしてたじゃないですか。

姉を赦そうと思えば赦せるって話。

もしね、和解、というか、謝罪と関係性再構築の合意が得られたら、もうそれから後に起こることは、わたしが今まで姉にされてきたこととは関係がなくなると思っているので、

多分普通に笑ったり怒ったりするんですけど、

父に「みんながお前みたいにそうやって切り替えられると思うな」と言われたし、この話をしたフォロワーにも「同じ人間だし関係はあるだろ」と呆れられてしまった。

このあたりの感覚、わたしもまだよくわかっていないんですよね。

でも別だと思っている…同じトピックだったら関連付けてまたキッキしてたりカッカしてたりクックはしません。まあしてたりするんですけど。

 

なんだろう…切り替えが早いのは確かだと思います。昔から。

叱られていて、悔しくて泣いたりしていても、説教が終わったら途端にケロリとしておやつをねだったりする子供だったらしいね。覚えているような、いないような、言われたからそういう記憶を作ったような。

両親は呆れていたし、ピアノの先生はわたしを怒らなくなっちゃった。怒っても無駄だからって。これは高校生の時にピアノの先生に告白されたから多分本当だよ。

なんだろう、時間で区切っているのかもしれないですね。

叱られる時間は終わったから終わり、怒っている時間は終わったから終わり、みたいな。

いやわかんない。ちょっとしっくり来たんですけどどうなんですかね。でもわかんないことについてはずっと怒っていることもできるし、

怒っている時間が一旦終わったからといって、もう一度怒りださないとは言っていないので。

面倒くさい奴だよ、本当にね。